下肢静脈瘤 手術の可能性
十年ほど前から「年をとったから同伴で集まろうよ」ということになった夫たちのクラス会で、Kちゃんの元気な裸を最後に見たのは四年前であった。
このところクラス会が今ひとつ盛り上がりを欠くのは、なんと言ってもKちゃんのこれがないからだ。
当のKちゃんは、一昨年のちょうどそのころ身も心も痩せ衰え、とても人前に出るゆとりなどない状態であった。
身中に発症した病と、懸命に闘っていたのである。
愛称Kちゃん、本名K、昭和四年七月二十九日、千葉県松戸市の大きな個人病院長の、八男一女の末弟として生まれた。
慶膳大学の法学部を卒業後、医師である父兄から目に見えないプレッシャーを受けたのか、医学部に入りなおした。
法学部の時は競走部で走っていたが、医学部に入った後は上背のあるがっちりした体に目を付けられ慶大医学部端艇部に入った。
埼玉県戸田の荒川縁に建つ合宿所に、新入りとしてKちゃんと一緒に入部したのが、私の夫のH能樹だった。
以来、端艇部合宿で同市し釜の飯を食べた長い付き合いである。
ポートはとりわけ辛い競技で、現代の軟弱な学生は入部を避けるという。
頭を空にして精一杯オールを引かなければ、ポートは前に進まない。
ひたすら体力と練習がものをいう。
練習が辛いこともさることながら、体育会は学年が一年違えば虫けら同然、規律が厳しい。
Kちゃんは法学部での四年間で余計に歳を喰っているが、年下の上級生にも腰低く笑顔で接し、他人の嫌がる仕事を率先してやった。
その態度が評価されて、部を動かすチーフマネージャーに指名された。
大先輩たちを訪問しての資金調達で艇を造ったり、恒例の部会の運営など、自らを低めて礼を尽くすやり方で、主務として抜きん出た才能を発揮した。
本人は後年、漕手としてオリンピックにも出たHに、「ボクだって対抗漕手として東大と競ったんだよな」と笑いながら主張したが、皆の心にはできる主務としてのKちゃんの姿の方が大きい。
医学部の学生は六年間のうち五年目と六年目で臨床の勉強をする。
各々が六、七人の小グループに分かれ、大学病院で各科をまわって実習するのを、医学生は通称ポリクリという。
一つの科の臨床講義が終わると試験があり、パスすると次の科に進んで、満遍なくすべての科を習得し、医師国家試験に臨むのである。
体育会にいる連中はビーコンすなわち試験に落ちた者が受ける再試を、たびたび受ける羽目になって、KちゃんとHはポリクリをまわるグループは別々であったが、放課後行われるビーコンをよく一緒に受けた。
そこで顔を合わせるのは大体いつも同じ顔ぶれで、最終学年の六年目の十二月に一杯やって怪気炎を上げた。
その日が八日だったことから、誰言うともなく「ヨカロウ会」と名付け、集まりは今に至る。
医師国家試験に合格した後、当時の制度ではインターンで修業し、その後に自分の所属する科を選んで入局した。
KちゃんとHは、偶然にもともに外科を選んだ。
入局すると、ただちに医局長が新人を二人ずつの組に振り分ける。
KちゃんはTさん、本名Aとペアになった。
「なぜ二人が組むことになったのかなあ、まったく思い出せないねえ」と、Tさんは首をひねる。
だがその二人が、磁石の両極のように、またとない絶妙な取り合わせで親友となった。
二人は朝から晩まで行動をともにして、家に帰らず病院に泊まり込む研修生活を送った。
口の悪いヨカロウ会の連中が「お前たち、少し怪しいンじゃねえか」とからかい、「いや二人は手をつないで歩いていたぞ」とデマを飛ばすほどの仲であった。
同級生が次々と身を固めたのに、Kちゃんは結婚式場、仲人、司会、スピーチ、余興などを着女と決めたものの肝腎の嫁サンが思うにまかせず、これにはすでに所帯を持ったヨカロウ会の仲間たちが本気で心配した。
だがようやく三十六歳で、お目々パッチリ西洋人形のようなHを射止めた。
長女のRが生まれてしばらくして、都心での勤務医を辞めたKちゃんが、松戸にある実家の病院を手伝うために故郷に帰ったところで、二人目の子供の長男Hが生まれた。
父親を継いで病院長となり、子供のPTAの会長や警察医、医師会の重鎮等、松戸市でのKちゃんは、市長を務めた父と同じく、地域医療のドクターとして社会の責任を担い活躍した。
医師として地域に根付くには、患者が投げかける身と心をがっしりと受けとめなければならない。
二代目としてのKちゃんは、患者ひとりひとりに優しく接し、病院のスタッフとも円満であった。
Kちゃんの自宅は、病院から車で十五分のところにある。
ある週末の深夜、玄関を訪うチャイムが鳴り響いた。
ドアを開けると息子らしい人に付き添われたひとりの患者がドアに隠れるように身を縮めて腰を二つに折っている。
応接間に通してKちゃんが一時間ほど静かに話すと、来た時とは打って変わった晴れやかな顔で帰っていった。
この人は末期の癌に侵され、もはや積極的な治療としてはなす術がなく、自宅で過ごしていたのだが、襲ってくる不安に矢も楯もたまらず思い余って主治医の家まで、時間をかえりみずやって来たという。
Kちゃんのジョークを言っては洩らす「あははは」という軽い笑い声が、患者ばかりでなく周りの人の緊張をやんわりほぐした。
たとえ診察室ばかりでなくプライベートな場所と時間であっても、溺れる人に手を差し伸べることをKちゃんは厭わず、それに関する愚痴も文句も、家族は聞いたことがない。
長女のEは北里大学医学部を卒業して、神経内科の医師となった。
そしてMと出会って結婚し、長男のHは会社員として独り立ちをして伴侶を得、傍目には万事順調にみえた。
家庭の中でのKちゃんは優しい父ではあったが、あまり良い夫ではなかった。
妻に子供を任せっきりで家庭は放りっぱなし、外で他人にばかり尽くすKちゃんを、本当は九人兄弟の末っ子で淋しがり屋の甘ったれ、いつも周りに大勢の人が楽しくいてほしかったのだろうと、Hは今になってようやく穏やかに振り返ることができるようになった。
家庭での仏頂面とまったく違うにこやかな表情で、会を盛り上げて他人を歓ばせ、どんな頼承もすぐに引きうけてしまう夫を、お嬢様育ちのHがちゃんと理解するのには、長い歳月を要した。
電話を受けたTさんは、若い時に心筋梗塞を起こして以来、人の何十倍も健康には気をつけ、現在では毎日一五○○メートル泳ぎ、スキーで世界を股にかけるほど元気だから、いまさら人間ドックでもあるまいと思った。
だが先ごろ、自他ともに許す健康印を掲げていたヨカロウ会の皆も親友のTさんも、気ばかり若いが歳を重ねて定年を迎えるころとなり、そろそろ体にガタツキが出はじめた。
企業ドクターをしているTさんのところへ、都心でクリニックをもつ同級生のMから電話がかかった。
「われわれも年齢的に体を調べる時がきてるよ。」という内容だった。大体医者ってのは、自分の体が後回しになるものなのだ。
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